当時の修行者(「シャモン, 沙門」など)は「苦行」を行う者がいました。
「苦行」とは文字通り、「苦しい行い(修習)」です。
お釈迦さまは「出家」した後に、当時の苦行者たちが行っていたように「苦行」を行いました。
しかし、思うような結果に至らず、お釈迦さまは「苦行」を放棄し、極端な苦しみを生まない修行をすることで、最終的に悟りに至りました。
仏教は「苦行」を否定した、といわれます。
たしかにお釈迦さまは、非常に激しく、常軌を逸するほどの「苦行」からは離れました。
しかし「苦行」の代わりに、出家者には俗世を捨て、200以上の戒律を守り禁欲的な生活を営み、修行を行い智慧を学ぶことを教えました。
現代の一般的な感じ方からすると、それも十分「苦行」といえるほど、とても大変なことでしょう。
今でも、スリランカや東南アジア、チベット、中国、韓国などの僧侶は同様に厳しい戒律の中で僧侶として生きています(もちろん時代や宗派、個人によって程度の差はあるのでしょう。日本にも厳しい戒律に沿って生活する僧侶はいます)。
では、お釈迦さまは「出家」した後、どのような「苦行」を行っていたのでしょうか。
仏典には様々出てきますが、当時の「苦行」と考えられていたものを、まとまった箇所からいくつか抜粋します。
裸行
便行(1)
草を食べる
牛の糞を食べる
糞掃衣を着る(2)
死体衣を着る(3)
髪の毛の衣、草の衣、木の衣などを着る
髪や髭を抜く
直立したままでいる
墓場で骸骨を枕にして眠る
痩せて背中とお腹がくっつくほどの小食
上記を見ますと、現代の常識からみると信じられない行いも含みます。
(これらはお釈迦さまの行った「苦行」というよりは、当時の「苦行」として一般的なものであったと推測されます)
あえて苛烈な行為を行い、自身を痛め苦しめることで、自身の業を取り去り、清浄を目指す修行者たちがいたようです(現在も上記の「苦行」を行っているかはわかりませんが、「苦行」を行う沙門たちは存在します)(4)。
お釈迦さまは墓場で骸骨を枕に眠ることについて、下記のように言及しています。
(サーリプッタとは、お釈迦さまが非常に信頼していた弟子です)。
実に、サーリプッタよ。
かの私(お釈迦さま)は墓地において、骸骨を(枕に)置いて眠りにつく。
そうしていると、放牛者たちが私に近づいて、つばを吐き、また小便をし、またゴミを投げ、また耳の穴に小さな棒を入れてくる。
しかし、実にサーリプッタよ。
私は、彼らに対して悪い心を起こさない者(自分)であると、よく理解する(5)。
この文脈からわかるのは、当時、苦行者に対して意地悪をする人々もいた、ということです。
仏典には他にも、修行者が一般の人々から石を投げられたり、辛い目に合う場面が登場します。
同時に、修行者たちは人々によって家に招かれ、食事やお布施を頂くなど、歓待も受けています。
仏教の出家者は托鉢などで食べ物を得ていますから、基本的に在家信徒や一般の人々の温かい支援によって、生命を支えられています。
そのような中で、辛い目にあっても、心を動揺させずに相手に対して悪意を持たないことを、お釈迦さまは勧めています。
上記のような「苦行」の後、お釈迦さまは「苦行」では悟りに至れないと考え、「苦行」から離れました。
そして、極端な苦しみを生まない修行をすることで、悟りに至ったようです。
(注・補足)
(1)パーリ仏典には「注釈」という書物があります。5世頃(仏滅後1000年ほど後。今から1500年ほ ど前)にブッダゴーサという僧侶などが仏典に対して注釈(パーリ後による説明書き)を作りました。「〇〇とは……という意味である。これこれこういうことだから……」などと書かれています。
「注釈」はどこまで正しいのか、は不明です(何しろ仏滅後1000年です)。しかし、仏教僧や教団が、彼らの内で長きにわたり保持し、繋いできた解釈なのだと思われます。その注釈を見ますと、「便行」とは、立ちながら便をし、また食べるそうです……。(Majjhima-Nikāya Aṭṭhakatā Ⅱ p.43)
(2)注釈によると「糞掃衣」(ふんぞうえ)とは、ボロ布から作られた衣です。これは「苦行」とは言いつつ、仏教の僧が普通に着るものです。(Majjhima-Nikāya Aṭṭhakatā Ⅱ p.45)
(3)注釈によると「死体衣」とは、遺体の衣服を取り、着るそうです。(Majjhima-Nikāya Aṭṭhakatā Ⅱ p.45)
(4)「苦行」の実践としてジャイナ教では「業に束縛された悲惨な状態を脱して、永遠の寂静・至福の状態に達するためには、極度の苦行を実践して、霊魂をきよめることが必要である、と教えた」『古代インド』中村元(講談社学術文庫), p.115.
(5)Majjhima-Nikāya Ⅰ p.79.