初期仏教のお話6 「水は生きているのか?」

古代インドの人々は、現代の我々のように「地球は丸く、太陽の周りを回っていて……」「分子は原子から構成され……」などと、長年にわたり積み上げられた科学的な知識やものの見方を学んでいません。
生活の中で、目の前にある物をどのように理解していたのか、現代とは大きく異なります。

太陽は巨大な火の玉にみえたでしょうし、稲妻は天の何者かの怒りに見えたはずです。
昼は明るく夜は暗い理由もよくわからず、夢と現実が混ざり合うような世界観であったと思います。

わかりやすい例として、『ミリンダパンハ』(milindapañha, ミリンダ王の質問)という仏典があります。お釈迦さまの生きていた時代から、数百年後には成立した仏典と考えられています。

『ミリンダパンハ』は、仏教僧ナーガセーナとミリンダ王(メナンドロス1世)との対話集です。

紀元前334年にギリシャのアレクサンドロス大王が東方へ大遠征を行い、現インドの北西部まで侵攻しました。その後、インドの北西部にはギリシア系の小さな国がいくつかできたようです。
ミリンダ王は、その一つの国の王様でした。(ナーガセーナについては実在する人物か含めて、残念ながら詳細不明です)

対話といっても、ミリンダ王の質問に対して、仏教僧ナーガセーナがことごとく明快な答えを出し、王は延々と「その通りです」と納得しつづけ、最後には仏教に帰依するという物語です。
仏教がいかに素晴らしいか、仏教僧がすぐれているのか、外へ向かって宣揚するためのお話に見えます。

その中で、ミリンダ王はナーガセーナへ「水は生きているのか?」と問いました。

(お話の要約)

ミリンダ王:「水は火にかけられるとシューシューとさまざまな音を出す。水は生きているのか?苦しめられて音を出しているのか」

ナーガセーナ:「いいえ、水は生きていません。水には魂がありません。水は熱の勢いが強いため、音を出しているのです」
「たとえば、池や川の水は、渇くと(自然と)枯渇します。しかしその時は音を出しません」
「水が生きているなら、象が水を鼻で吸い、水が歯で潰されているときに(水は苦しんで)音を出すでしょう。しかし出しません。つまり、水は生きておらず、魂がないのです」

ミリンダ王:「その通りです、尊者ナーガセーナよ」(1)

このように、お釈迦さまの時代は現代と異なり、科学的な知識はきわめて乏しいと思われますので、目の前の一つ一つの物事を理解するにも、個人の実体験などからくる手持ちの材料でなんとか考察するしかありません。

「目の前にある水は生きているのか? 自分たちが考えている生き物と同じなのか?」

日常のありとあらゆるものに対して、このような疑問はとりとめもなく生じていたと思われます。

仏典を読むとき、不可思議な説明やお話もたびたびありますが、世界に対するとらえ方が現代の我々とは根本的に違う、ということを理解して読まなければならないと思います。

現代の私たちのものの理解のほうが正しいのか……も、わかりません。

(注・補足)
(1)Milindapañho, PTS, pp.258-262. 日本語訳として『ミリンダ王の問い』(平凡社)などがあります。

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