初期仏教のお話17 古代インドの「動物」(畜生)たち

仏典には「畜生」(ちくしょう)という言葉がでてきます。

おおよそ、今の我々が考える「動物」と同じ範囲を指すようですが、「畜生」には虫も含みます。
(仏典によっては竜などを含む場合もあります)

生きとし生けるものは輪廻し続ける、と考えられていたわけですが、その死後の行き先は
「地獄」・「餓鬼」・「畜生」・「修羅」・「人間」・「天」
の6つが挙げられております。
これを、「六道輪廻」といいます(1)
もっとも苦しみが多いのは「地獄」であり、もっとも楽の多いのは「天(界)」であると。
その中で、「畜生」界に生まれたものたちが「畜生」と呼ばれます。
私たちは「人間」界に生まれており、「人間」として生存しています。

多くの古代インド思想では、生前に行った「行為」(業)により、死後の行き先が決まると考えられていました。
仏教においては人間の「行為」を3つに分け、「身の行為」・「口の行為」・「心の行為」とし、その中でも「心の行為」が最も重要なものと考えました。
なぜなら、心において悪い思い(行為)が生まれると、そこから悪い身の行為や、悪い口の行為を生むからです。

そして仏典には「一度、畜生の境遇に落ちたら善の行為が行えない(動物は善・悪を考えて行動したり、修行を行ったりできない)から、より良い境遇へ生まれたり、輪廻自体から抜けることができない。人間に生まれたら、善を行い徳を積み修行し、輪廻を脱すること」という考え方がしばしば登場します。

そして、一度悪い境遇に生まれた者(地獄・餓鬼・畜生)が輪廻し、再び人間に生まれることは、
「大海に一つの穴の開いた木(くびき)が浮いていて、
100年に一度、海面に頭を出す亀が、(偶然)その穴に頭を出す」
よりも難しいことであると言うのです(2)

ですから、せっかく人間に生まれた以上、善を行い、修行をして輪廻から脱することを説いています。

ちなみに、植物は心がないため「畜生」ではなく、輪廻しないそうです。

仏典には「動物たちは、人間より体力があるのに、自分の意志で行動できず、争いもし、愚鈍であり、人間に支配されている……畜生として生まれることは、ただただ苦しいことである」と表現されております。

おそらく、現代の私たちが常識として習う「進化論」などは考えられていないため、生き物は似たようでいて、なぜ人間と牛・馬・虫などはこれほどに違うのだろうか……という、生き物の存在をある意味で公平に見ていたのではないでしょうか。

牛や馬と人間は種が異なる、という理解ではなく、「同じ生きものなのに、前世で悪いことをしたからあのように生まれたのだ」と。

そして、輪廻自体が苦しみですから、そこから抜け出す(解脱)ことが仏教を含めた多くのインド思想の最終的な目的になったのです。

(注・補足)
(1)仏典には、「五道輪廻」(修羅がない)という表現もあります。
(2)Majjhima-Nikāya Ⅲ 169など.

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