初期仏教のお話14 「念仏」(マインドフルネス)

当寺は、浄土真宗です。
「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と「念仏」(ねんぶつ)をとなえます。
なまりますと、「なまんだーぶー」となりますが、同じでございます。

「南無」(なむ)は初期の仏典の言葉であるパーリ語のnamo(敬礼します)、またはサンスクリット語のnamasの漢訳です。
ですので、「南無 阿弥陀仏」は、「阿弥陀仏へ敬礼します」という意味になります。
この「念仏」は、初期の仏典にも登場します。
パーリ語では、「念仏」は、buddha anussati(ブッダ アヌッサティ)と呼ばれ、意味は「仏へ注意を向ける」ことでした。

anussati(アヌッサティ)とは、sati(サティ)を繰り返す(anu)ことです。
satiは「念」と漢訳されましたから、仏への「念」で「念仏」です。
また、satiは英語においてはマインドフルネス(mindfulness、意識を向けること)などと訳されています。satiは、昔はattention(注意)などと訳されていたのですが、100年ほど前に、マインドフルネス(mindfulness)という訳語も追加されました。


近年、マインドフルネスは、一種の瞑想のような意味合いや、集中力を高めるような、または気持ちをリラックスさせるような効果があるとして広がり、宣伝されています。

マインドフルネスなどの隆盛は、アメリカでは瞑想産業ともいわれ、医療や教育、ビジネスから軍事(!)までにも応用されているそうです。
同時に、そもそも仏教とビジネスや軍事は、目的も道理も根本的に相いれないため、近年では、本来のマインドフルネスに立ち返る必要も説かれています。

日本にマインドフルネスが紹介されたとき、
お坊さんの中でも「マインドフルネスってなんだ?日本の仏教と何か違うのか?」と黒船来航のような反応が一部に見受けられました。
しかし、なんてことはない、マインドフルネスはsatiであり「念」であり、浄土真宗でいえば、教えの根幹である「念仏」そのものです。

初期の仏典では、「念仏」の意味としては主に、
「仏へ注意を向けることで、功徳により死後、輪廻して天に生まれる」などの果報が説かれています。
これらは、浄土思想の源流であったように私は思います。

同時に、仏教ですから戒律を保つことが前提であり、戒律を保った上で念仏することが重要であるとも説かれます。

私が思いますに、心身を綺麗にしようとしたとき、例えば心身を汚れた皿として考えてみます。
まず、汚れた水で皿を洗っても綺麗になりません。
戒律は様々な情報などを遮断する意味合いがありますから、まず汚れた水を止めるのが戒律であり、皿を磨くのがsatiなどの修行であると思います。

仏典においては、satiだけをすることが重視されているのではなく、仏教全体として戒律を保ち、satiも利用し、智慧を学ぶことなどすべてが一体となっています。

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