初期仏教のお話11 「四聖諦」とは? 

お釈迦さまは、「四聖諦」(ししょうたい)を理解し悟りに至ったと伝えられています(1)

「四聖諦」とは、「苦聖諦」「集聖諦」「滅聖諦」「道聖諦」の4つの真実のことです。
(「苦・集・滅・道」(くじゅうめつどう)などと呼ぶと覚えやすいです。)

初めの「苦聖諦」とは、生きることは苦しみである、という真実のことです。
日本語の「四苦八苦」(しくはっく)は、「苦聖諦」に挙げられる8つの苦しみに由来します。

まず、「四つの苦しみ」として、「生きること」「老いること」「病になること」「亡くなること」を挙げます。この4つ「生・老・病・死」は、苦しみそのものであるといいます。

そして、下記4つを足して、合わせて8つの苦しみとなります。

「愛別離苦」(あいべつりく)・・・愛するものと別れる苦しみ
「怨憎会苦」(おんぞうえく)・・・・ 憎しみを持つ人と会う苦しみ
「求不得苦」(ぐふとくく)・・・・・求めるものを得ることができない苦しみ
「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)・・五蘊(身体や感覚などすべて)に執着する苦しみ

これら「四苦八苦」を見ると、古代の世界も現代と変わらないようです。

「生きることは、苦しみだけなのか?」と疑問に思われるかもしれません。

このように考えられた背景の一つとして、古代の世界においては、病気や飢え、犯罪や災害など、現代の世界よりもはるかに、生きること自体が困難であったと思われます。
墓地や路上には打ち捨てられた遺体があり、高温多湿のインドですから、仏典において人間の体は「蛆(うじ)の城」と形容されています。
常に苦しみが現前し、人々は生きることの無常に直面する日々を送っていたと思われます。

また、経典の中には、一般の人が修行者に対して「なぜ、現世を楽しまないのだ?」と問う場面があります。
対して、お釈迦さまは、現世の喜びや楽よりも「本当の安楽を求めている」という立場をとっています。

現世の喜びは、はかなく、気晴らしにすぎず、煩悩を生み苦しみや執着・輪廻の原因になるとして忌み嫌い、真の安らぎを求めたのでしょう。

「集聖諦」は、苦しみの原因は渇望であるという真実
「滅聖諦」は、苦しみの原因を滅するという真実
「道聖諦」は、滅するための道の実践(「八聖道」)という真実

となります。

つまり、
お釈迦さまは、「生きることは苦しみであり、苦しみの原因は渇望や煩悩である。その煩悩を滅するための道(「八聖道」)がある」ということを理解し、悟りに至ったと伝えられています。

「八聖道」(はっしょうどう)とは、仏教の修行としての8つの実践のことです。
例えば、「正しく物事を見る(正見)」「正しく念ずる(正念)」などが挙げられます。

この「正しく念ずる(正念)」(2)は、浄土真宗における「念仏」そのものです。
近年、「念」の英訳の一つである「マインドフルネス(mindfulness)」(3)は、アメリカなどでは瞑想産業といわれるほど、医療・教育など様々な分野に取り入れられております。

生きることを「四苦八苦」であるとし、戒律を守り身を清め、智慧を学び、修行に励むことで、解脱に至り、本当の安らぎに至ること(輪廻からの離脱)を目指したのです。

(注・補足)

(1)対して、「縁起」(えんぎ)を理解して悟ったという伝承もあります。
(2)「念」はパーリ語で「sati」(サティ)といい、「注意を向ける」「気を付ける」など何かの対象へ意識・心を向けることを意味しています。意識を向けることでその対象が心に浮かぶことから、「思い出す」とも訳すことができます。例えば、「仏」が目の前にいないときでも、思い出そうと「仏」に意識を向けると頭の中に「仏」の像が出てきます。これが「念仏」となります。
(3)100年ほど前、リス・デイヴィッツという学者が「sati」に「mindfulness」という英訳を付与しました。それまでは、「attention(注意)」「recollectin(思い出すこと)」などと訳されています。

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