当寺は、浄土真宗です。
「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と「念仏」(ねんぶつ)をとなえます。
なまりますと、「なまんだーぶー」となりますが、同じでございます。
「南無」(なむ)は初期の仏典の言葉であるパーリ語のnamo(敬礼します)、またはサンスクリット語のnamasの漢訳です。
ですので、「南無 阿弥陀仏」は、「阿弥陀仏へ敬礼します」という意味になります。
この「念仏」は、初期の仏典にも登場します。
パーリ語では、「念仏」は、buddha anussati(ブッダ アヌッサティ)と呼ばれます。意味は「仏へ注意を向ける」です。
anussati(アヌッサティ)とは、sati(サティ)を繰り返す(anu)ことです。
satiは「念」と漢訳されましたから、仏への「念」で「念仏」です。
また、satiは英訳においてはマインドフルネス(mindfulness、意識を向けること)などと訳されています。satiは、かなり昔はattention(注意)などと訳されていたのですが、100年ほど前に、ある研究者によって、辞書にマインドフルネス(mindfulness)という訳語も追加されました。
近年、マインドフルネスは、一種の瞑想のような意味合いや、集中力を高めるような、または気持ちをリラックスさせるような効果があるとして広がり、宣伝されています。
マインドフルネスの隆盛は、アメリカでは瞑想産業ともいわれ、医療や教育、ビジネスから軍事(!)に至るまで応用されています。
同時に、そもそも仏教とビジネスや軍事は目的も道理も根本的に相いれないため、特に2015以降、本来のマインドフルネスに立ち返る必要も説かれています。
日本にマインドフルネスが紹介されたとき、
お坊さんの中でも「マインドフルネスってなんだ?日本の仏教と何か違うのか?」と黒船来航のような反応が一部に見受けられました。
しかし、なんてことはない、マインドフルネスはsatiであり「念」であり、浄土真宗でいえば、教えの根幹である「念仏」そのものです。
初期の仏典では、「念仏」の意味としては主に、
「仏へ注意を向けることで、功徳により死後、輪廻して天に生まれる」などの果報が説かれています。
これらは、浄土思想の源流であったように私は思います。
同時に、仏教ですから戒律を保つことが前提であり、戒律を保った上で念仏することが重要であるとも説かれます。
私が思いますに、心身を綺麗にしようとしたとき、例えば心身を汚れた皿として考えてみます。
まず、汚れた水で皿を洗っても綺麗になりません。
戒律は様々な情報などを遮断する意味合いがありますから、まず汚れた水を止めるのが戒律であり、皿を磨くのがsatiなどの修行であると思います。
仏典においては、satiのみをすることが重視されるのではなく、戒律を保ち、satiも利用し、智慧を学ぶことなどすべてが一体となっています。