古代インドにおいて、仏教含めた多くの思想家は、生き物は死に、また別の境遇へ生まれ変わる「輪廻」という考えを前提としていました。
当時、「輪廻」を否定する思想家もいましたが、仏教含め古代インドにおける思想などの主流派は、すべて「輪廻」があることを前提としています。
(当時の一般大衆のどれほどが輪廻を信じていたかは不明です)
そして、生きることを繰り返す「輪廻」は苦しみであり、悟りに至ることでその「輪廻」から離れることを目指していました。
「輪廻」するということは、生き物それぞれには「過去世(前世)」があった、ということになります。
日本のとある新宗教では、「〇〇の前世は天照大御神であった」、とか「妖怪〇〇」であったなどの霊言をするようですが、そのモデルは「輪廻」を前提とした「過去世」でしょう。
初期経典では「過去世」を思い出すことについて、しばしば言及されます。
具体的な話として、「お釈迦さまの過去世がヴィパッシン仏で……」などと説かれることもあるのですが、下記の話が定型句として最も多く現れます。
彼は多くの備えた過去世の住所(生存)を思い出す。
それは次のようである。
1つの生存も、2つの生存も、3つの生存も、4つの生存も、5つの生存も、10の生存も、20の生存も、30の生存も、40の生存も、50の生存も、100の生存も、1000の生存も、100,000の生存も、多くの消滅の劫(非常に長い期間)も、多くの再生の劫も、多くの消滅と再生の劫も〔思い出すのである〕。
「そこで私はこのような名であった、このような家系であった、このような身分であった、このような食物を〔食べ〕、このように楽と苦を享受し、このような生涯であり、彼はそこから消え、そこで生まれ、そこでまたこのような名であった、このような家系であった、このような身分であった、このような食物を〔食べ〕、このように楽と苦を享受し、このような生涯であったと、彼はそこから消え、ここで再生した」と。
このように 多くの状況と詳細な説明と共に、多くの備えた過去世の住所(生存)を思い出す(1)。
仏典には「輪廻」は無始(始まりがない)である、と説かれます。
生き物は、延々と長い「輪廻」を繰り返しているというのです。
上記の話では、十万もの生存の過去世も思い出す(ことができる)と説かれています。
「過去世」があるならば、何とか思い出すことも可能である、と考えられたようです。
そのためには、経典において「繰り返し思い出そうと注意を向けること」(マインドフルネス)や、修行を進めることが条件となっています。
当時の人々にとって、「思い出す」(sati, マインドフルネス)ということは不思議な力であったと思います。
現代のように記憶は脳の機能として捉えられていませんから、意識を集中すると何かが心に像として浮かんだり、思い出せたり、なぜか思い出せなかったり・・・
文字が広範に使われていなかった世界ですから、記憶するということは生きることの寄る辺であったはずです。
人が頑張れば過去世も思い出せる、と想定しても、何も不思議はなかったのでしょう。
(注・補足)
(1)Majjhima-Nikāya Ⅰ 347-348.